昭和41年08月03日 朝の御理解



 今朝からこんなお夢を頂いておる。伊万里の竹内先生達の、ご一家が何所にか移転なさるという、その移転される、移転先の家というのが、大きな家なんですけれども、もう大変古い家でもう、まぁ言うならあばら家同然の家なんですね。はぁ今までおられた所は。 あんなに立派なとこだったのに、どうしてこんな所に移られるんですか。一番是がやっぱ神様の御都合で御座います、って先生言われるんです。
 してまぁ私の場合にはもう、母、年寄り。それから家内、子供達に至るまでがもう掃除好きで御座いますから、もう瞬く間に家の中が綺麗になりますって。この家をまた立派にしなければなりません。と言うておられる様なお夢です。熊本から、ここに縁を頂かれましたのは、もうすでに伊万里市の助役としてから、伊万里においでられてからの事出御座います。ですから奥さんは熊本の方に残っておられました。
 熊本の、何か、大学の喫茶部かなんかを、言わば経営なさっておられます。沢山の女の従業員の方達を使って、やっておられますけれども。例えば奥さんがおられる所に、もうその皆ですね、色々関連のある人達が、皆ご神縁を頂いたり、又はその手続きによって助かったりしておるとい事ですね。勿論、親戚は言うに及ばず。ご承知の様に、なら竹内先生の周囲は尚更の事、あんなに段々毎日竹内先生の所に集まっては、先生の教導を受けておる人達が段々増えて来る。
 例えばこの頃の、丁度その前の月次祭に、一家あげて参っておられましたから、あん時に秋永先生が発表しておったのを聞いておられたんでしょう。まぁその次の、日曜の31日の、現場での除草の御用をもう、一家をあげてで御座いました。何とはなしにですね、もう一家をあげてその、何かその、まぁ言うならレクレーションと、言った様な感じがないでもないですもんね、他の人達の場合は。
 まぁ、こまかつと連れて来てから、もう本当にまぁそれでも良いんですけれども、なら竹内先生の所の場合何かは、そげなもんが全然ないですもん。もう一人ひとりがもうそれこそ、もう言うならば、モンぺばきにゲートル巻きっち云う様な感じですもんね。お婆ちゃま達に至るまでが。もう私が行く所、私の一家が行く所は、もう光輝くしてくれる様になる訳なんですね、とにかく。
 まぁ私はあの、皆さんよりも一足早く帰られて、もうそれこそ皆さんの一生懸命なさった仕事には、着ておられる是が汗でじっくりなっている、形が付いとりました。竹内先生あたり。例えばなら、長男の正教さんが、ここに随分長く修行させて頂いておりました。ほりゃもう本当にあの、是こそ素晴らしいですもんね。ただ素晴らしいというより他ないですもん。朝の御祈念に遅くなったら断食するて。そりゃ皆さんもご承知の様に、もう頭はこの人は天恵ですね、頭の素晴らしい事は。
 東大が、言うならば良過ぎてから落第したっち。 あの通らなかったって言う位ですから。良過ぎてっち言うとちょっとおかしいですけれどもですね。それが点数を引かれた元であったと云う事だったですから。もうその性質も勿論良いですけれども、その修行精神て言うですかね、大体その、とにかく来年又受験するのに、とにかくその大半を椛目で修行から先にすると言う、とにかく心構えですから、違います。
 その旺盛な修行精神というかもう、唯もう私共が教えられる事ばっかりで御座いました。学生会が今椛目で非常に熱烈になって、盛んになっておりますけども、こりゃ絶対この人の信心だと思いましたですね。こりゃまぁ自分の事言うちゃおかしいですけれども。私共がね本当に熱烈に善導寺でおかげ頂いておる時には、もう本当に月次祭たんべんにお参りが多なりましたですから。 
 こりゃ間違いなかったですもん。ですからですね、例えば本当に、一人本当に熱烈な人が出来、あのお広前でも出来ますとですね、その人に付いて来るですよ、信心は。こりゃ信心だけの事だけじゃありません、社会に出ても同じです。二番目の、何ち言うですかね、正教さんの次は和典さんち言います。次の娘さんが恵美子さん。皆んなそうです、皆んな頭がやっぱ良いです。良いけれどもですね、何かこの頭の良い子に、その特に弊害のあると言った様な、そういうものは全然ないですね。
 もう友達の事も全部お取り次ぎ願われるです。そして修行精神は皆んながそうです。とにかく一家中で熊本から歩いて来るち言うんですよ。はぁ、あんたが歩いて来るなら、私達も、なら僕もと言った様な風でですね。一家中でいつか歩いて見えられた事があります。もうそれが、あの成就しなかった、途中で成就しなかったからっち言うてから、何時間掛りで正教さんは歩いて帰りましたです。
 こらもう椛目の学生、だから私、今後、もうあの人がおりません、椛目の学生会は危ないもんだと思うですそれをね、どうこうと言うのじゃないです、もう信心。信心がそういう、言わば。ものが出来るんですよ。迫力がもう自分のおる所だけ、もう自分の部屋だけをきちっと。一歩出るともうそこは外は化け物屋敷のごたる。例えばその古い家でもです、どの家もこの家もです。
 皆んな綺麗に、例えば改築が出来るとか、お掃除が出来るとか、何処に行っても住み心地が良いという、例えば家にしてしまう為にはです、もう一家中の者が挙げてその気にならなければ駄目です。そうするとです、いや、私は気持ちの良い家に住む事が出来るという事になるのですよ。自分がおる所だけ、もうゴミは、ゴミだらけ。自分のおる所だけばもう、押しやり蹴りやりでですたい。
 自分の所だけばこうやって、立派にさえすればよかごたるけれども、もう一足向こうに出たら、ゴミだらけのところにならおらなきゃならんと言う事です。昔、「中江藤樹」という儒者がおられましたですね。あの人のおられる村には、盗賊がいなかったと言う。夜なんか詰めて休む事はですねしませんもう恥の様であったと。戸締りをせんで休めたと言われております。
 是は例えばそういう、この修養の積んだ、修養でですらそれが出来るので御座いますからね。まして信心させて頂く者がです、その人の行く所行く所にです、新しい良い、新風を巻き、その起こす事の出来る様なです、行く所行く所に光が輝く様にです、明るくなる様にです。もう私だけ、私がここ、ここだけ。もうこの部屋だけ立派に片付けて、それでっちゃ。一歩出たらもう汚いでしょうが。責めて自分の住もうておるその一軒を、どの部屋に入っても。
 やっぱり掃除が行き届いておる、感じの良い部屋であると、いうところに自分の気持ちの良い部屋にする、いわゆるその事が出来るのであり、部屋に住まう事が出来るのですよ。例えば私の、村が平和な村であると言う事は、私の家も平和であると言う事なんです。ですから是はですね、どうもしてもそういう一つの、もう熱気と思うんです。熱、この熱というですかね。
 迫力と言うですか。もう私の行く所、必ず言わばご信用を頂く人達が出来るんだ、まぁそれが神様の、自分の修行だと言う様なです、考え方です。是は、私共もそうでした。もう私の所の、出来た得意さんな、もう金光様の信者にならんならんもんの様に、又お話をしなければならんもんと私は思うておった。もう行く所行く所。いやぁ大坪の来なさったけん又金光様の話ば聞かんなん、ち言うてから言いよりました。ある場合の人は冷かして、聞いてくれる人もある。
 また聞くとを楽しみの様に思うておる人もある。家の嫁に話してくれ。家の婆さんに話してくれ、と言った様な、その代わり人達も段々出来て来る。そして何かそこに、お付き合いしよる内に何かがある。とにかく一遍お参りして見なさい。と言うて私がお導きさせて頂く訳なんです。と言うて私が福岡におる時分に、随分お導きをさせて貰う、そしてまぁ私の所にも集まって見えれる様なおかげを頂いておった。
 是も一つ、例えばもうこの家は、誰が住んでも良い家になったんだから、もう次の、誰も住みてがない様な所に行ってです、そこを建て直し、そこを綺麗にし、その事を私共は御用と言うのじゃなかろうかと思うですね、本当意味で御用とは、そして、それが立て直る。又次のなら所へ移って行く、そこであの人のおかげで。あの人一家のおかげでと云う様に、有り難いものが広がって行くんだとこう思うんです。こげな、それこそ化け物屋敷のごとある、大きな家じゃあるばってん、まぁ古い家。
 いんやもう私の方にはもう皆んなが協力してくれますから。皆が一生懸命、お掃除、綺麗好きですから。というてその、手分けしてその一部屋一部屋を綺麗にしてまぁ行かれるに違いはない。私が夢の続きを言うならば。そして自分達の住まっておる部屋だけではなくてです、炊事場も、客間も、台所も。もうどの部屋もこの部屋も、光輝きする様になるでしょう。
 そして初めて、私共気持ちの良い、例えばその家に、もう自分が如何に極楽だと言うても、自分の足元だけ極楽じゃ駄目でしょう。一歩も外に出たらもう地獄。もう自分にだから縁のある限り。自分の行く所。全てがです、そういう信心の雰囲気が出来て来る様な願いと言うものをです、頂かなければいけんと思うですね。自分のおる所だけ、もう信心ちゃ有り難い、有り難い成程そこは極楽かも知れん。
 けれども極楽が段々狭うなっておる様な事はないだろうか。はぁあれどんな信心するけれどもって周囲から地獄の方から押し攻められてから、狭もうなってしもうておる。だから自分善がりではいけないという事。果たして自分の信心がです自分の職場に、どれだけ広がって行きよるだろうか。自分の関係のある人達の中にどれだけ成程信心があるから、と云った様な信用を自分が頂いて行きよるだろうか。私そういう意味でのその御用をです、こりゃもう言うなら当然というよりもですね、まぁ責任だと思うですね。
 神様から頂いておる有り難いものをです、人に伝えて行く。自分のおかげを受けた事を伝えて行く。自分の幸せになって行けれる道があるなら、それを人に話していける。よう言わんばってん一遍参って見らんの。そげなこっちゃ詰らんです。本当にそれが助かる為にはです、とてもはなさなければおられんというものを、だから自分自身が頂いとかなきゃ出来んと云う事。
 自分自身が、言わば足元の掃除すら出来とらんもん。同じ、言わば家族の中におっても、それがそれだと、教導出来ない位の事ではです、本当な御用が出来ておるとは言えない。今朝からそういう、お夢を頂いてから、まぁそう云う様な事だろうと私は思うた。現在の伊万里市の助役の椅子を置いて、又よそに移って行かれる、まぁそう云う事でも、なさそうですから。そう言うお知らせではなさそうですから。そう云う様な御理解であろう。そして成程そういう意味での。
 まぁ人の手本になる様な信心をせろ、と言うのならばそういう意味での手本を、成程持っておられる家族を上げて、そういう信心をなさっておられる、まぁ一家であるという風に私は思う。あちらのお婆ちゃんの信心。まぁ本当にあの、本当に違いますね、成程、矢張り、この親あってこの子があるのですから。この頃からでした、お参りして見えられてからそこで家族全部の方がお茶頂きながらです、もう本当にもう、正教が大変お世話頂きますという話からで御座いました。
 けれども本当に、お婆ちゃん本当に、お婆ちゃん一人のご信心がこうやって一家中を上げて、だけではない。なら伊万里なら伊万里に何十人の人が、お婆ちゃんの所の信心について見えられる。ね。竹内先生も素晴らしいけれども、三代様があなた方とこは素晴らしいとよ皆んなでほんなこて三代様が素晴らしかもん。まぁ私が信心が出来んから、しかしお婆ちゃんあなたが信心が出来んからと言いなさるけれども。
 こういう素晴らしい息子さんが出来られたと云う事だけでも有り難い。だけども、まぁその次がまぁだ素晴らしい、様な気がするって私が。三代様が素晴らしいち言うてから大笑いしておりましたけれども、信心と言うものはそういうものじゃなかろうかと思うですね。自分がおる所だけが綺麗になるのじゃなくてです、自分の住まっておる責めてその一家だけ位は、いや自分の関係のある。
 例えば商売でいうなら自分のお得意さんの所まで位はです、補のうて行く位までおかげ頂いて御覧なさい、行く所行く所が信者ではなくてもです、信心の雰囲気で話し合いが出来るんです。そこに段々、自分の住まい、言わば有り難い世界て言うか、極楽の世界というものが押し進まれて行く所の御用。是が私は本当の、神様の手になり足になりする、口になりする所の御用というのはそう云う様な事じゃなかろうかと私は思うんです。
   どうぞ。